GalleryV(デッサン・リトグラフ・水彩)
文・ Madame Yamashita
石膏デッサン「アリアス」(木炭)
(48.5×63.5cm)
玲司さんが好んだ石膏像の一つ「アリアス」。「若い頃
どうしても欲しくてね、お金もなかったけど買ったんだ」。
今ほど物が豊かには無かった昭和30年代前半の話。
石膏デッサン「大顔面」(鉛筆)
左・木炭デッサン(48.5×63.5cm)、右・鉛筆デッサン(24.5×33.5cm)
鉛筆デッサン(38×46cm)
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リトグラグ「パリ市庁舎」
(38×46p)
「父のDeath Mask」(昭和38年、享年60歳)
(鉛筆デッサン)
玲司さんの父、良夫さんのデスマスク。1963年、玲司さんが31歳のとき、コスモスの花が咲く頃、交通事故により父は鬼籍に入った。それから20年余りの時を経て、玲司さんは「親孝行できなかったよなあ」とぼやいていた。 良夫さんはシベリアに2年間強制抑留された経験がある。 玲司さんは鹿児島生まれだが、生後間もなく父親の仕事の関係で中国に渡り、中学生までかの地で過ごす。一家は中国の奉天市(今の瀋陽)に居を構えていた。戦後間もなく、「町の清掃を行うから男達は集うように」と要請があり、良夫さんも出かけた。トラックに乗せられ、着いたところはなんと「シベリア」。 突然家長を失った家族。いつ帰ってこられるかどころか、その生死すら分からない。荒れ狂う動乱の中、それでも玲司さんの母は三人の子供達を手放すことなく、命からがら日本に帰ってきた。 玲司さんは中国残留孤児のNHKドラマ山崎豊子原作「大地の子」を見ながら、「本当にこうだったよなあ」と目に涙を浮かべていた。 拉致、抑留、強制労働。過酷な寒さと飢え。同胞は次々に死んでゆく。良夫さんは奇跡の生還を果たしたが40代でありながら栄養失調で歯は抜け落ち、髪は真っ白、凍傷の後遺症で片足を引きずって歩いていた。 「俺は駅(鹿児島)に迎えに行ったけど、親父が分からなかったもんなあ」。良夫さんは「なんとしても生きて帰る。栄養があると思って尿も飲んだし、ネズミを見たら、みんな奪い合って取ったもんだ」と話していたという。 ロシアの芸術には平静でいられる玲司さんだったが、政治となるとロシアに対する憤りは収まらない。ロシアの報道を行っているテレビに向かって大声で怒鳴り倒し、肉体から怒りが噴き出していた。なだめる私に、「あの時戦争は終わっていたんだ。それなのにそんなことをするのか! 悪すぎる」。玲司さんの心の中では戦争は終わっていなかった。 良夫さんは軍人ではなく、清掃に参加したほかの人達と同様民間人。日本人の軍関係者はその清掃に参加しなかったという。良夫さんは生涯に渡り、正座をすることはできなかった。 良夫さんとは面識がない私は、これが玲司さんの父だとすぐに気づかず、「この人死んでる」、「ああ、死んでるね」、「どうすれば死んでいるように描けるの?」、「そのまま、見たままに描けばいい」。 |
「母のDeath Mask」(昭和54年、享年70歳)
(鉛筆デッサン)
「ムーランギャレット」(水彩)
(33×48cm)
パリ・モンマルトルの丘を下りていくと「ムーランギャレット」が、この景色が見える。パリには丘が2つしかない。ベルヴィルの丘とモンマルトルの丘。モンマルトルの丘の頂上あたりにサクレクール寺院があって、そこからはパリが一望できる。夜景も美しい。そこからテクテク歩いて下りると、石畳を叩くヒ−ルのリズミカルな音がしてこの場面に出くわす。
坂を下りるって、ドラマですね。普通にいつものように歩いていても、なにかが頭をよぎるわけでもないのに、なにかが違う。そして、この景色。 |
「浅間山」(水彩)
(38×46cm)
長野が、軽井沢が好きな人でした。4月下旬から5月上旬、桜と梅の花が同時に咲く軽井沢ならではの春。軽井沢から望む浅間山。 遺品を整理していたら「浅間山は美しい。ここに別荘が欲しい」とノートに書かれてあった。そこまで思ってたんだ。 |
「薔薇」(水彩)
(38×46cm)