「緑」と絶筆



「緑」F100(162×130.3cm)

Madame Yamashita  2009年10月 記

先頃、知人である画伯が他界していたことを知る。もう一年余り前とのことで、少なからずショックを受けた。

山下は大学生だった頃、美術研究所の講師をしていた。画伯が一番初めに絵を習った先生が山下だった。夫が帰らぬ人となり、画伯は「山下さんにはびっくりしたなあ。世の中にこんな人がいるんだ、と目を見張ったね」、そう話してくださった。

山下の100号における絶筆は「緑」。絵には月が描かれている。

制作途中、「あ〜、疲れた。この空だけでも7回塗っているもんね」。十六年間一緒にいて、山下の口から「疲れた」という言葉を聞いたのは、この時が初めてだった。そして、それが最後。

山下が夜景を描いたのは「緑」一点だけだった。

私は「夜」が好き。ベートベンのピアノソナタ第14番「月光」は、私が一番好きな曲だ。17歳の時、クラスメートの家で聞いて以来、その感動は薄れることはなかった。山下は「月光」のレコードを持っていた。

妊娠中、胎教とかそんなことに関係なく私は朝から晩まで、クラシック音楽を聴き続けた。「ロンドカプリチョーソ」「チゴイネルワイゼン」「月光」「ショパンのエチュード」。そういう生活を送ってみたかった。「音楽を聴くなとは言わないが、同じ曲ばかりを聴くのは止めてくれないか」。山下の苛立ちを抑える声がした。

「君はリズムを追うね」。モーツアルトが好きな山下にとっては、私の聴く曲がバランバランとうるさく感じられるようだった。

それから十六年。

『この絵のタイトルは「月光」でしょう?!』。『いや、「緑」』。『どうして…?「月光」にしてよ』。夫は首を横に振って、「緑」。

「緑」を描き終えた頃、山下の体調が悪化。入院して癌であること、既に転移していることが告げられた。「緑」の制作中に、健康状態が良くない自覚はあったはずなのに。

私が看護のため、病院に通う日々が始まった。夜、休もうと部屋のライトを消して、暗くなった壁面を見た。

「緑」が目の前に、私の目に入った。暗いなかで煌々と光る月、ホワイトが浮かび上がって、それは夜の帝王をていしていた。帝王からは凄まじい威力の渦が巻き、木々は揺れ、ざわめく。木の幹は生命の静脈で、バーミリオンの血しぶきが上がる。

「緑」は昼と夜、二つの明かりの下で見られるように描かれていた。正確にはあらゆる光線のもとで、その時々の景色が映し出されているようにできている。凄い! 驚いた。

入院中の夫のベッドの傍らで、そのことを話すと、「君も少しは絵描きらしくなってきた」。彼は横になったまま、ほほ笑みながら私の肩を叩いた。

山下の声が聞こえなくなってから、私は画伯に「先生は長生きしてくださいね」。「はい、私は大丈夫」。

あれから九年。

画伯の絶筆を拝見させていただいた。

画伯は抽象画を永く描かれていて、絵のタイトルはTとかUのような記号で、文言は使われない。

100号と思われるキャンバスは、横位置(横長の長方形)で、画面を中央から縦に大きく二つに割り、ターコイズグリーンとターコイズブルーを配している。

その境目の上方に白い半円が大小二つ重なっている。いずれも境目線上に円の中心点がきている。大きい円のほうはホワイトの下にターコイズグリーンとターコイズブルーが透けて見えるように描かれている。

「あ〜、やっぱり絶筆だなあ。遠くない最期を察した肉体が、魂に知らせている」。見つめ続けていると『あれっ?「緑」、「緑」に似ている。これは月?」。

だけど、バーミリオンがない。「緑」にあるバーミリオンがない。「なぜ」。画伯の個展や展覧会を拝見させていただいたことがある。赤い作品を何点も見た。

「偲ぶ会」では画伯の遺影の上に絶筆が飾られていた。遺影は画伯が作品の前にいる写真で、その作品にはバーミリオンが見える。

准教授達が中心となって開かれたという「偲ぶ会」。やはりバーミリオンがあって然るべき…。画伯は意図的に赤を排除した? なぜ。「バーミリオン、赤、朱、赤…」。

半円は円を半分描くことにより後の半円を空想させて、より空間を大きく見せるため、と思っていた。だが、それだけではない。「見えていない半円はバーミリオン! バーミリオンの半円。これは太陽、そして月。二つのターコイズは昼と夜。そしてそのなかで生きる生命。宇宙、無限」

山下の「緑」は「月光」ではない。白い円は月であり太陽。あるいは、昼の月と夜の月。だから「緑」。

「生と死」。二人の画伯は私と同じ空の下にはいない。それでも私は生きていかなければならない。

太陽は昇り、日は沈み、月は輝き、また朝が来る。その繰り返し。それは自然で必然。ありがたくもあり、それが非情に感じられることもある。時空、刹那と永遠、変化と普遍。そこから奏でる詩は人によって違うだろう。

「月光?」。鼻先で笑ってしまった。『私が「月光」を好きだから…』。山下は、そんなことは微塵も与しなかった。安っぽい私のセンチメンタリズム。「そうでしょうね」。気分が沈み、肩が落ちた。

太陽は昇り、日は沈み、月が輝き、また朝が来る。それを繰り返していると、『もし、「月光」を残されていたら、私は終わりの日まで、十字架を背負って生きていかなければならない。芸術は、そういうものではない』。景色が違って見えた。

山下と画伯は若かりし日以降、交流はなく、夫が亡くなる少し前に一度お会いしただけ。

画伯は夫が黄泉の国に旅立つおり、お香典を持ってきてくださった。「私は形式的なことがきらいなので」と、優しい感じのする白い封筒を差し出された。「私の場合は、お香典返しは結構です」。

画伯は享年68歳。山下と同じ年で逝かれてしまった。

さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ



■top

■GalleryT ■GalleryU ■GalleryV ■profile ■GalleryW ■猫の版画 ■Links